音楽を伝える為に...要は私の足掻きです。
鍵盤ハーモニカでも、歌でも、ピアノでも結局は、“何をどう伝えたいのか”がはっきりしていないと伝えることはできないです。
当たり前?
いえいえ、どうしたいかが分からない時って意外にあるのです。
曲が見えない時、見えてもイメージが湧かない時、曲の感じが自分の好みと合わない時...
結局、こういう時は、楽譜通りの音を並べてしまいがちです。
気が付かないうちに音を並べて、弾けてる気分になる時ってあるのです。
どうすればいいかって?
私は、先ずは楽譜と睨めっこします。
旋律の流れを歌いながら4小節単位に(2から8くらい)区切ります。
同じ旋律がきちんと2回繰り返して出てくる時よりも、2回目が少し変わっている事が多いです。
この変わり方が作曲家によって違っていて、私はこれを見つけたりするととてもいい気持ちになってしまいます。
事の始まりは、室内楽での伴奏がなかなか弾けなくて苦しんでいた時に、楽譜を見ていて同じ旋律の変化に気がつき、見える化をしたのです。
フォーレのわけわからんと思えるような曲も旋律変化を少しずつ追っていくと何とか曲が見えてきたりするのです。
こうすることで音楽が進もうとしている方向がわかってきます。
後は、自分の演奏を録音して聞いて考えます。
客観的に自分の演奏を聴きながら、あれこれ考えます。
ちょっとした工夫ですが..., お粗末でした。
Rachmaninow op11
今連弾講座でRachmaninow op11
を勉強中です。
fff からいきなり ppp へに、その逆もしばしば。
今やっている曲がスケルツオなので、強弱の落差やテンポの急変がスケルツオらしさに一役買っていて、弾いていてとても楽しいです。
そして、以前から気になっていた
ソルジェニツインの小節を秋口から読んでいるため、(没落貴族の生活や世の中がひっくり返ってしまった状況のひどさ、収容所生活、保身しか考えない人達の話等々)
Rachmaninow の子供時代の生活の大変さを想像してしまいました。
作品番号も最初の方で、ロシアの空気がじかに伝わってくる作品です。
最後のスラヴァという曲は、栄光あれというロシアの歌がもとになっているそうで、色々な作曲家がこの歌を自分の曲に取り入れているそうです。
スラヴァはクリスマスの時に歌われるそうで、Rachmaninow 自身もこのタイトルの入った合唱曲を作曲しています。
連弾曲のスラヴァは雄大で管楽器の音も聞こえ、鐘の音も聞える様な豪華な曲です。
夕方のうた
中田喜直先生の"こどものピアノ曲"の<夕方のうた>についてちょっと分析をしてみました。
この曲は、分析するとpやpp、転調して元に戻ることの意味が明らかになり、どういう情景が描かれているのか、とてもわかりやすい曲だと思います。
まず、タイトルの夕方です。
夕方になると、1日が終わって家に帰る、夕ご飯を食べて、家族で喋って、気がつくと夜になっていて、寝る...
まぁこういった時が流れることが多いかなと思います。
夕方が近づいてくると、空が何となく明るい青から暗い青へと変わっていきます。
もっと太陽が沈みはじめる頃には空がもっと濃い青、紫、黒に近づきますが太陽の周りはそれはそれは綺麗なオレンジ色に変わっていきます。
季節によってはオレンジ色が変わりますし、オレンジ色の光が暗くなろうとしている青空に反射して紫やピンク色が混じったりします。
この時間帯が夕焼けなのです。
私の友達は、生徒さんにこの曲を勧めた時に夕方...夕焼けをみた事がないし、知らないと言われて非常にショックだったそうです。
今は、夕方、夕焼けといったどうっていうことのない、でもとても素敵な時を意識する間も無く過ごしているこどもが沢山いるのでしょうか?
この曲の話に戻ります。
もうすぐ1日が終わろうとしています。
これから、家に戻って休みます。
疲労と安堵感があります。
ぐったりの時もあればホッとする時でもあります。
ですから、あまり調子の良いテンポや音量は指示されていません。
AndanteでPです。
A durで始まります。
「1 の2小節目からはfis mollになります。
そう、楽しかった友達とまた明日とわかれます。
深刻な別れではなく、バイバイ!です。
そして、冒頭に戻ります。
今度は、先程よりは明らかに日が落ちて暗くなり始めているので、ppで弾き始めます。
「2に進み終わります。
私は、「1、「2の冒頭の小節の2拍目の和音がたまらなく好きです。
l 13になるのかなぁ...よくわからないのですが、心地よい柔らかな解決をしていていいなぁと思います。
そして、前半に同じフレーズが2回出てきます。
2回目のバスは、低くなっていて、暗さが少しだけ増していく状況を描写しているのかなと思います。
見え見えだと言われるかもしれませんが、一人一人の夕方が思い浮かべやすくなっているのではないでしょうか?
私の部屋の本棚にずっと埋没していた小学生になったばかりの頃使っていた楽譜をやっと見つけました。
中田喜直先生の"こどものピアノ曲"です。
この教材をやり出して3曲くらい弾いて、私は、横浜に引っ越しました。
この曲集は富山のおじいちゃま先生がいいよと言って勧めてくださいました。
新しい曲になる前には、いつも弾いてくださいました。
楽譜の記載を見る限り1つの曲をいくつかに区切って弾いていったようで、歩みは遅かったに違いないです。
譜読みが遅かったのではないかな?
バイエルが終わって、チェルニー100番を弾いていました。
私は、横浜に来て、新しい美しく頭の良い若い先生に付き、リトルピアニストを始めからやりました。
全部やったわけではなく、真ん中以降は飛び飛びでした。
ただ、この先生が怖いけど優しいフランクな先生で、私は夢中で練習したのを覚えています。
そうしているうちに、譜読みが速くなっていったようです。
私の譜読みには、母が介在していて、私一人でやったら遅いままだったかもしれません。
私は、両手で一気に譜読みしたいのに母は片手づつをやらせようとして、いつもここからバトルだったのです。
ちなみに、娘の譜読みに私も参加しましたが、娘は両手タイプで、バトルは考えられませんでした。
話が逸れてしまいました。
中田喜直先生のこの曲集で私は、"いもむしとちょうちょう"が大好きでした。
今もです。
全部さらっと弾いてみたのですが、"おまつり"はとても素敵な曲です。
多分、大人や外国の方には、日本らしさが感じられて喜んでいただけるのではち思います。
昔の楽譜ですが、この曲集は今も売られています。
私の楽譜は、第2刷です。
今は第?刷なのかしら?
毎日雨☔️、雨☂️。
夏はいったい何処に行ったんだろう。
昨日は、古い写真を整理しました。
今週は、レッスンはお休みなので、片付けをしています。
昔の写真を見ていると、私は涙が出てきます。
何故かわかりませんが、胸キュンになってしまって…
だから、子供の頃は、写真が嫌いでした。
皆さんもそうでしょうか?
撮った記憶のある写真などは、その時の気持ちまで覚えています。
その気持ちを噛み締めて整理をするのは、余り好きではないのです。
その中に、母がオルガンを弾いている写真がありました。
母がオルガンを弾いたと言う事実は、里の整理をした時にこの写真を見つけるまでは、知りませんでした。
何故言わなかったのかなぁ。
もし、話していたら、母の一言を私も聞いたかもしれないのに…
母は、自分のことを言わない性分で、色々な思いを黙って飲み込んでいました。
私は、気が変わりやすいのに自分のことは九割くらい喋ってしまう方で、母とは正反対です。
この頃は、余り自分のことは話さなくなりました。
人それぞれの人生があり、人の喜怒哀楽はさほど変わらないし、人生の幸不幸は、意外と公平なのではないかな?と思うようになってしまったのです。
しかも、面倒に感じ出してしまって。
でも、基本がお喋りですから、よろしく喋ってやってますが…
古い写真には、母と一緒の写真がありました。
この写真は、大好き❤です。
今施設に居て、どんどん衰えていくばかりの母ですが、こんな時もあったのだとあれこれ思いをめぐらせています。
家で譜読みをしていて、気がついたことがあります。
今、Schubert D946, とChopin op10-8 とBrahms op78の譜読みをしています。
Chopin は譜読みというより、手にはまらない所を覚えている最中です。
Schubert を弾いていて、だんだん曲が見えてきました。
4小節づつの繰り返しと、8小節づつのまとまりがはっきりしてきて、転調もはっきりと分かってきました。
何となく弾いていたものがどんな構成、どんな展開か意識しているだけで、曲が分かってきます。
私は、こすると消えるボールペンでよく分かるように小節を区切ることにしています。
私の楽譜はカラフルです。
似てる所、新たなフレーズが見えてきて、やみくもに練習する必要がなくなります。
それと同時に、弾けない所が見つかり、どうしてなのか、それを克服するため練習方法も見つけることができます。
Brahms はまだ弾き始めて間がなくて、掛け合いを追ってみたり、ソナタなので、テーマを探し出したり、展開部や再現部を探して、全体をゆっくり弾いてみました。
2.3楽章は、どんな感じの曲なのか歌ったり、聞いたりしています。
何しろ全体構成が分かるまでゆっくり弾きます。
作曲家がどのように展開していこうと考えたのかを、見つけ楽しむのです。
何回か弾いていると弾けない所がはっきりしてきます。
作曲家によって、独特な和音の使い方、フレーズの拡大の仕方があるので、何でもかんでもがっちりさらうのではなくて、細かいパートの変遷に注意して弾きます。
この作業をたくさんやると、曲を捉えることができるようです。
以前は、分からない故にひたすら和声分析をしたり、端から順番にていねいにさらいました。
このやり方だと曲が見えていないので、弾けない所への準備が遅れてしまい、いつも弾けないままになりがちです。
曲をさらうのは、ひたすら弾くことでなくて、曲に近づくことなのではないかなぁと思っています。
今の私は、ピアノを弾くことが楽しくてたまらないし、譜読みが速くなった気がするのですが、これは、やはり、幻想かな?
生徒さんを見ていると、ご両親が家でどうサポートしているか垣間見える時があります。
年齢によって、親子関係によってそれぞれだとは思うのですが…
まずは、私自身の子供時代から書いてみます。
私の両親は、子供はぶって育てなければダメだと信じ実践していました。
父もまたそういう考えの両親に育てられたので、子育てとはそういうもので、子供は、親の言う事をハイと言って聞き、実践するものだと考えていました。
・ ・ ・ ・ ・
参考までに
(先日、以下の記事を読んで身に覚えのあること多々ありました。
私の場合は親子関係が深刻ですよ。)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170518-00010003-bfj-soci
・ ・ ・ ・
私の場合は、親がピアノのレッスンについて来てメモ取ってレッスンの通り家でやらせました。
先生にとって”いい子ちゃん”で、凄く進度も速かったです。
小学生時代に、遊ばずにピアノばかり毎日2時間は弾いていたわけですから、当たり前です。
でも、小学生時代から母とのバトルは壮絶でした。
私は、私なりに理解した事を反芻して弾きたいし、ここはこう弾いてみたいなと…
私のピアノの先生は、小学生4年生までは、壮絶なバトルがあった事を分かりつつも色々なことを教えてくださり、レッスン以外はとても優しい先生で、大好きでした。
さて、このところ、ちょっと困ったさんの年長さんのことです。
彼女は、レッスンで色々提示されたりするものには大分反応するようになってきました。
以前は、だんまりだったり、他の事をしだしたりするので、私は、凄く悩みました。
何がいけないのだろうかと…
次第に、時々とても疲れていることに気づいたり、ピアノを好きに弾いてみたいのにあれこれ指示されるのが嫌らしいと発見できたりしてきました。
彼女に対しては色々な種類の教材と面白そうな絵、教具、歌、歌遊びを用意しています。
それで気がついたのは、ピアノの前に座った時、家でお母様と一緒にやった事は、やろうと意地でもしない時があることです。
自分でやりたいんだなぁと発見しました。
自分から弾きたいと思うまでのんびり待つしかないかなぁと思っています。
もう1人の小学3年生は、お母様はバトルになるからピアノは教えないとおっしゃる方です。
この生徒さんは、いつもの教材だと極めてゆっくり一つ弾いたら一休みして次を弾きます。
音を丁寧に弾くのはいいのですが、旋律になりません。
それで、知ってる曲も、弾きやすい指の運動を合わせてやっています。
たぶん、この生徒さん位が自分でやりたくて始めた小学生なのではないかしらとふと思うのです。
ピアノを始める動機は、小さな子供になればなるほど親のやらせたいという希望があります。
ご両親の協力があってやれるものではあるのですが、親や教師が子供の意志を認めずに強引に従わせるようなことは、逆効果だと思います。
ちなみに、私は娘の練習にはほとんど口出ししませんでした。
何回弾いても上手くいかない時も、娘から教えてと言ってくるまで何もしませんでした。
今も、私からしたら、もっと曲を知って、音質に拘ったらというショパンを弾いてますが、だんまりです。
私なら、ここはこう弾きたいという構想を1人思い描いています。
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カトリック教会とプロテスタント教会で歌われる聖歌の話。
今日は、歌う側の立場で、紹介をしてみようと思います。
私の里はプロテスタント、主人はカトリックファミリー。
私と主人を取り繋いだのは、イグナチオ教会であったハンガリー出身のネメシエギ神父様が開いていたキリスト教入門講座でした。
こんな経歴の為、私はプロテスタントの讃美歌もカトリックの聖歌集も歌います。
写真の上2つはカトリック教会で使われているカトリック聖歌集と典礼聖歌集、下はプロテスタント教会の讃美歌です。
見てすぐ判るのは、プロテスタントの讃美歌には伴奏譜も付いています。
ピアノで弾くと指が届かない時もあります。
学生時代、伴奏部分を1オクターブ上げて歌ったりしました。
カトリック聖歌集には伴奏譜が付いていないものがほとんどです。
典礼聖歌集は、伴奏も付いています。
典礼聖歌集は、高田三郎先生が日本的な曲を取り入れたものとして作曲なさったものです。
もう一つ判ること、それは、プロテスタントの讃美歌には、曲のルーツが書いてあることです。
意外な作曲家の曲が讃美歌になっていたりします。
たまたま新しい生徒さんが聖歌大好きで、聖歌を歌ったり弾いたりしたいという夢を叶えるべく、私が好きなマリア様の歌や、讃美歌を弾いてみました。
大好きな讃美歌がカトリック聖歌集にもあり、原典を見たらシューベルトのドイツミサのサンクトスでした。
これは、意外な発見でしたし、大好きなシューベルトの曲がカトリック聖歌集にもあったのが何より嬉しかったです。
物事には限度というものがあるらしい。
......................... .........................
私は、時間をかけて丁寧に浚った曲を合わせた時、何故か崩壊状態に陥ってしまいました。
それも、時間をかけた順番に。
最悪ですが、でもいくつか学べた事があります。
忘れないためにもそうなった時の兆候をまとめておきます。
現象1)
ひたすら丁寧に、ゆっくり浚っていたはずでしたが、いつの間にか暗譜していました。
これ、ソロ曲でもよくある現象ですが、余り宜しい現象ではないと思います。
暗譜は、何回か弾いていると覚えるてしまう時も、暗譜するという意識で取り組まないと正確に記憶されないのです。
惰性で覚えた時は、惰性で弾いている事に繋がり、せっかく考えていた音楽が飛んでしまい弾く事だけに専心してしまうことに繋がります。
合わせ物の伴奏では、危険行為です。
昔、コーラスの伴奏で、惰性の暗譜でトラブった事を思い出しました。
現象2)
速い曲で、よくあることですが、その日の1回目にトラブルって焦ったり、弾くべきテンポが分からなくなっている時も、やらなくてはと負荷をかけて練習すると余計弾けなくなります。
メチャ速くなっていたりして...挙句の果て音楽はなくなります。
音楽がなくなってしまうと、ちょっとした事で崩壊状態に陥ります。
私が掴んだ現象はこの2つです。
まだまだあると思いますが...
今回、きちんと弾けていたはずが弾けなくなってしまったのは、平素の練習の中である程度仕上がった段階でしばしば遭遇して、困っていた現象であった事で、この状況になってしまった時は、暫く弾かないで、楽譜を見たり音源を聴いたりして、弾く行為から遠ざかるべきだったのではないかと思っています。
浚い過ぎも災いをもたらす様です。
私は、浚う事が絶対的に善だと刷り込まられています。
今日は、ちょっと気分転換に、似てる!と思っているメロディーをいくつか...
私はこういうのを見つけるの大好きで、見つけた時、作曲家どうしの繫がりや思い、生活の空間で見聞きしていたものを想像してしまいます。
最初の写真は、バルトークの子供のためにの1巻の5番 遊びというタイトルの曲です。
写真の繰り返しの後の6小節、これってブラームスの大学祝典序曲です!
バルトークは、この曲を知っていたのですね。
どこで聴いて、どう感じたのかしら?
でも、自分の曲の中に織り込むのですから、好感を持っていたのでは?
などと妄想します。
次の写真は、シューベルトのD813、創作主題による変奏曲です。
私は、この曲のセコンドを弾いたので、譜読みの時点で、ベートーベンの最後のソナタの1楽章の旋律だ!と気が付いていました。
相方に、ベートーベンだ!と言ったのですが、また...とスルーされてしまいました。
シューベルトはベートーベンの事を非常に尊敬していて、シューベルトの曲の中に時々ベートーベンの曲のモチーフがさりげなく入っています。
こういう着眼点で、曲を見ていくと作曲家の好み、生活文化などが見えてきて面白いと思います。
でも、ピアノのレッスンでそんな話はできないし、先生もなさりません。
こうした見方は、フランスミュージックの番組で知りました。
あれと似てるこれと似てるという話はよく出てきます。
日本でそんなをしたら、著作権がどうのこうのと言われて、聞いてもらえないかもしれません。
音楽って身の回りと繫がりを持っているので、私はピアノのレッスンの時は、歴史や絵本や,身の回りの話まで必要とあらば、しています。
大人の方だと、色々な手芸の話に迄行ってしまうこともあります。
楽譜 : バルトーク 音友社
シューベルト 全音
ベートーベン ヘンレ版
12/6/'16
29/5/'16
ソッソソッソソッソソッソラソファミレ…
ミッキーの歌です。
この部分を楽譜に書きなさいと言われたら、できますか?
楽譜と似てるものは書けるのではないでしょうか?
耳から聴いたものを楽譜にする事は、単純な旋律の聴音なので、何とかものにしていけると思います。
でも、楽譜からほとばしる旋律を歌うことができるでしょうか?
これは、楽譜の全ての音を出すこととは違います。
例えば、写真の赤字のリズムの♪ の音が浮いて、旋律に聴こえてくるかということです。
複雑な楽譜の音の連なりから、フレーズに必要な重要な音やリズムを見つけられるか
ということです。
私は、弾けない、分からないと膠着してしまう時の多くは、楽譜の音符の量に翻弄されて、シンプルな旋律が見いだせない時なのではと思うのです。
楽譜を読む、歌うことの重要性を感じます。
16/5/'16
昨日、母のグループホームの催しで、歌の伴奏を頼まれ、所謂歌集のコードを参考に伴奏を考えました。
参加者は、施設の入居者とその家族ですので、あまりキーの高い曲はキーを下げて歌いやすくします。
この伴奏付けをしていて、EmとかAとか、歌集の曲を編纂した方の和音へのこだわりを感じます。
今回も、コード番号通りに弾いてみてから、あれこれアレンジしました。
和音をジャンと弾いた方がいい時,転回したほうが使いやすい時、分散和音にした方がいい時…何回も弾いて確認しました。
分散和音にする時V7の第5音を入れるか入れないか、混ぜこぜにするととても弾きにくいのです。
耳にも、混ぜこぜにしない方が聴きやすいです。
グループホームにはキーボードしかないので、今回はフルオルガンの音色で弾きました。
左手のバスを残しながら弾きました。
月の砂漠などゆったりした曲は、バスが残っていると素敵に聴こえます。
今回は、幸せなら手をたたこうを歌い、動作も付けてもらいました。
皆さん、とても楽しそうで、むすんでひらいてもやりました。
音楽はやはり音だけでなくて、話、歌や踊りといったものが根本にあって、それらが一緒になった時、すごいパワーを持つのではないかなと思いました。
勿論、踊りながら、ワーワーわめいているのが音楽だとは思いませんが、音楽が今の音楽の形になった歴史を考えた時、ただ音だけを連ねている音楽では相手には伝わらないなぁと思いました。
聴き手にどう聴こえ、どう伝えたいか、何を伝えたいかまで考えようと思います。
6/5/'16
GWが終わりました。
今日は立夏です。
皆さまいかがお過ごしでしたか?
私は、もう20年近くGWの期間は家にいることにしています。
かつて、渋滞に巻き込まれ、とても疲れたのです。
今年は、家で、必死にピアノの練習をして、15日に頼まれている施設での音楽の時間の選曲やプログラムを考えたりしていました。
* * *
皆さんは、お休みの時はピアノもお休みでしょうか?
私は、子供時代親がうるさくて、お休みでもちゃんとピアノを練習していました。
一人っ子って親の目がバッチリ行き届くので…
子供時代は、レッスン以外の曲が弾きたかったです。
でも、楽譜が沢山あるわけでなく、悶々としていたものです。
今はピアノを全く弾かない日があります。
弾かなければ、指の動きは間違いなく後退します。
1日弾かなかったら、何回かゆっくり弾きなおせば元に戻りますが、何日もずっと弾かないでいると元の調子に戻るまでに、弾かなかった日数分位必要になります。
でも、わざと1日弾かないのです。
それは、ずっと考えて練習しているのにはかばかしくない時や、曲のイメージがどうしてもわかない時などです。
わざと弾かないで、弾かない日は曲の事や練習方法を考えているわけで、頭はピアノや曲に関して働いています。
大抵、1日たって弾きなおすと、色々気が付き、修正できます。
気付かないと進歩はないのです。
どうも、人間の頭は思考処理が追い付かなくなった時には、休養する時間が必要で、休養している間に頭は処理されているらしいです。
よくできています。
フランス語の事を書いたブログでも似たような話を書きました。
熟成期間が必要なのです。
25/4/'16
写真の楽譜、1番の2小節目のドドドーをどう弾きたいですか?
楽譜の絵やタイトルから想像するとどうでしょうか?
私は、ドドドーは、1つ1つの音を切って弾きたいです。
ドドドーを切って弾くには、わざわざスタッカートにしなくても離鍵を意識するだけで切れて聴こえますし、ノンレガートに弾いても切れた感じに聞こえると思います。
大人の生徒さんにお付き合いしていると、発見の多いこと!
曲をどんな風に歌うか、私は大人の生徒さんに求めてしまいます。
そうすると、子供っぽい曲でも大人の響きを持った曲に変わります。
私は、その瞬間が大好きなのです。
”指が回ったから、終わり”にしてしまうと、子供と同じレッスンになり、弾いていてもつまらなくなっていってしまうだろうなと思うのです。
初心者の大人だからといって、子供と同じレッスンをしてはいけないのだと考えます。
私がピアノを再開して、受けたレッスンでずっと不満だったのは、”生徒なんだから大人も子供も同じでしょ?”と考る先生のレッスンだったからなのかなと思います。
人に教えることは、とても難しいことなのだと改めて思います。
大人の生徒さんは、技術的には初心者でも、音楽に寄せる気持ちは大人なのですから…
24/2/'16
似たもの探しで思うこと。
チェルニーは、ベートーベンやモーツアルト、流行りの曲を自分の作品に取り込んで編纂したりしていましたが、よく考えてみたらシューベルト、ブラームス、メンデルスゾーンもそうなのです。
ヘラーもやはり、ベートーベン、シューマンなどの曲を、テーマにした変奏曲を書いたりしています。
音楽というもの自体に他の作曲家の曲を取り入れて自分なりに消化している所があると思うのですが、現代はそれをなかなか許してはくれません。
ここに、曲の捉え方の変遷があるのかなと感じます。
ブラームスがハンガリー舞曲の連弾を作曲したとき、この曲集の前半は当時流行っていた曲を編纂したものでした。
後日この曲を作曲した人に訴えられたときに、ブラームスは自分は作曲はしていない、編曲しただけだと言いきったという逸話があります。
盗作と編曲とはどう違うのかと今ならつっこまれますね。
でも、この似たもの探しは、その作曲家がどんな曲を知っていたか、好きだったかがわかる手段でもあります。
ですから、この曲は、この終止は誰のどこに似てるとキャッチできる耳をもっともっと育てようと思います。
18/12/'15
火曜日に大人の方が、初めてのレッスンにみえました。
宿題はやってこられ、やってみたい曲も持ってきてくださいました。
宿題を色々解説しながら連弾で合わせて進めました。
譜読みの時に、”音を出して弾く前に”、曲がどんな曲なのかを歌ったり、眺めたりして掴んでから音を出してみるようにアドバイスしました。
はるか昔、小学生時代に合唱の先生が声に出して歌う前にどんな曲か説明しました。
早く歌ってみたい私にとっては随分まどろっこしい時間でした。
でも、どんな曲かが分かっているのとそうでないのとは歌っていくうちに曲への理解の深さが違うと思うのです。
先生の説明をもとにした指導だとやっていくうちに理解できました。
今通っている大学のウィークエンドカレッジの先生も楽譜を見なさい!の連発です。
私も、楽譜は何回もコピーしてはノートに貼り付け書いたり消したりをしながらどんな曲なのか、指使い、和声分析、調性の変化、各声部の受け渡し(バッハや室内楽曲の時は特に)、全体を眺めてイメージしたり、速度や音質を考えたりします。
≪楽譜は大抵コピーして使います。
新しい発想がうかんだ時や気分を真っ白にしたい時綺麗な楽譜が必要だからです。≫
…ここまで考えて、私のピアノの進歩は ”牛歩” になりました。
楽譜を読む力を養いたいし、伝えていきたいと思います。
7/12/'15
5日に1月9日にあるコンサートの合同練習に参加してきました。
私と相棒はバッハの管弦楽組曲の担当です。
通奏低音を入れてと言われたので、4手連弾のセコンドのパートを二人で分けて弾いていましたが、結局、チェンバロパートを右と左で分けて弾くことにしました。
合わせていて、気が付いたのですが、左手はチェロパートと同じ、右手はバイオリンパートと同じ事が多く、聴いたり合わせたりする楽器が違うのですね。
途中で、右と左を変えられたらいいなぁと思っています。
めっちゃ面白いです。
やって良かった。
23/10/'15
11/9/'15
7/9/'15
今15日のチェルニーのセミナーに向けて、30番の3曲を突貫工事中。
田村宏先生のレスナーのためのチェルニー30番、結構役に立ちます。
昔、この楽譜を見た時、驚くほど沢山の記載事項があり、レッスンでこんなに沢山の事を言われるのかと思い、自分はこの先生に教わらなくて良かったと思いました。(門下生の方、ごめんなさい)
ところが、今この楽譜を見て弾いていると、曲として弾くにはどうしたらいいのかが、細部にいたるまで丁寧に説明されています。
練習曲の域を出ないと思われる曲でも、演奏の基礎になるポイントは網羅されているのです。
少なくとも、1つの曲として仕上げる為の響きや、それを引き出す手の使い方などとても役に立ちます。
地道に音色の変化を求めている者にとっては、アドバイスの山だと思いました。
音色は、ちょっとしたことで変わりますから。
10/8/'15
5/8/'15
ピアノの仕組みの授業の時、先生がキーの仕組みが解る模型を持っ照らして、キーと音の出る仕組みを説明しました。
音は、きーのどこを叩こうと変わらないと…⁇
私達学生は、平素ピアノの先生にこういう音、ああいう音を出せと言われてましたから、その説明では納得できませんでした。
友達と色々話しました。
それから、何年かして、私はバレンボイムのベートーベンのマスタークラスの映像を見ていた時に、バレンボイムは音楽はマジックだと言いました。
実際に2通りの弾き方を提示したのです。
確かに同じ音のフレーズなのに、全く違うものに聞こえました。
彼がどう言ったかは、映像を見ないと不正確になるので割愛。
昨日、ミニコンサートの伴奏のために
28/7/'15
土曜日に友人のピアノ教室の発表会に行ってきました。
この発表会は10年以上前から誘われていて、今年は彼女とミニコンサートを開く予定もあり、どんな感じなのか行ってみようと思いました。
発表会は、子供の時の嫌な思い出が蘇るところでありなかなか気が進まなかったのです。
でも、土曜日は行って良かったなぁと思いました。
彼女の生徒は、ピアノをたたきつける弾き方をしないのです。
これにはびっくりしました。
そう、指導できるのだと思いました。
沢山の演奏を聴いて、彼女は響きを大事にするんだなと思いました。
連弾を合わせた時に聞いてみました。
やはりそうで、ピアノをたたかせないと言ってました。
彼女の生徒さんたちの好きな曲はドビュッシーの”月の光”なのだそうです。
これを聞いて、フィリップ・カサールが子供の時先生が弾くドビュッシーが好きでたまらなかったという話を思い出しました。
教師の平素の指導が、子供には如実に現れるものだと改めて思います。
子供時代、毎日いやいやピアノを練習していた私、時間がもったいなかったなぁ。
ピアノ好きだったのに、母がそばにいる、何かしら言ってくるそれが嫌だった…
今は、自分の音を、響きを創りたいと思う日々です。
子供の時の癖が無意識に出てくるのですが、それを聴いて、録音もして、考えて、たくさん実験して探そうと思っています。
28/7/'15
今日、カワイ表参道であったフォルマシオンミュージカルのセミナーに行ってきました。
カバレフスキーの子供のためのピアノ小曲集を扱いました。
カバレフスキーのこの作品集はかなり前、娘がPTNAのコンペの課題曲として弾いていたので、知っていました。
私はその時から、この曲集が好きで後日CDも買いました。
今日はフォルマシオンミュージカルのセミナーだったのですが、終わってみれば、和声、新和声の話、教会旋法の話で終わってしまったみたい。
大きな声を出して歌ったので、とても楽しかったし、私がフランスものに惹かれてしまう、その原点を見つけた気がしました。
印象的だったのは、ナポリと新和声の捉え方です。
ナポリの和音を声を出してI→II、I→Nと歌ってみるととても美しく神々しい響きに聞こえました。
こういう事を言葉で書くのは難があり、響きは書けません。
和声が次々と展開していく所を新和声の捉え方で処理するとスッキリするし、複雑な和音の展開を1つ1つ考えなくても済むことを学びました。
Debussy, Faure, Ravelなどはこちらの方が理解しやすいと教わりました。
フランスものの和声分析をしていると、意味を成さない和声の列ができて、ちょっと困ってしまうことがあるので役立ちそうです。
和声のI, V, IVとかいう表示は機能を持っている和音、和声進行には有効ですが、ゼクエンツのような同じパッセージの繰り返しの部分に機能和声の数字をあてはめても、あまり役に立たない。
それよりはゼクエンツが曲全体のどういう部分に使われているかに着目することで曲が見えてくるので、新和声では、何でもかんでも I, V, VI と分析するのではなく、5,6,7という数字を使って合理的に和音を見ていきます。
詳しくはもっと勉強しないと書けません。
私はこの頃、フランスものの分析は調性やメインのテーマのカデンツは分析しますが、それ以外はフレーズごとにブロックに分けて構成を見るようにしています。
ブロックが微妙に変化していたり、とても単純だったりしますが、○○形式から外れている曲ではこの方が全体が見えるのです。
このやり方でいいのかな?と思っていたので、今日の説明で自信がつきました。
カバレフスキーは、この曲集で斬新な響きを使っています。
初めて聴いたとき、私は心が洗われるような気がしました。
Debussy の曲を聴いてうわっという気持ちになる時と似ていると久しぶりにカバレフスキーの曲に触れて思いました。
音楽は繋がっている。
色々な曲を聴いていて、あれ?この曲はあの曲と雰囲気が似ている!って思った事はありませんか?