暑い夏で、風が強かったり、いきなり雷雨になったり...
今年の天気の荒々しさが感じられます。
私の発表会が終わった翌日に母の具合が悪くなり、その次の日に母は旅立ちました。
老衰で、ずっと眠り姫の様に寝てばかりの最期でした。
母の葬儀の後、先週、今週と役所に通い、荷物を整理したり、記録やメモを読んで色々考えたりしています。
母の真の姿はやはり外での活動にあったと思っています。
外では民生委員として活躍、統計調査をして、法務省の人権擁護委員などを務めていました。
外で活動するまでの母は家の中で黙々と和服を仕立てていました。
納期になると徹夜が多かったです。
でも、着物を縫いながら私が結婚したら、私の家近くに住みたいと言ったり、私にピアノへの進路をとって欲しいなぁとほのめかしたりしていました。
母はおはぎが大好きで、お昼御飯はおはぎということが多かったです。
御飯に梅干し、キャベツ...母はいつもこういう物ばかり食べていました。
それが、私が結婚して10年近く経ったある日、母から電話があって物忘れが酷くて困っていると...
その時は、忙しくてよく寝ていなくて、食事もいい加減だからかな?と思っていました。
物忘れのトラブルは以後私には言いませんでした。
私は、小さな子供3人の子育てで手一杯の時期でもありました。
でも、次第に、私の家に来るのが大変になってきました。
電車の方向を間違えたり、電車自体を間違えたりするようになりました。
その時にもっと両親と対話があったら、父を説得できたかもしれないと今更の様に思います。
父は家の中で君臨していて、母は困っている事も父には黙っていたのです。
母の病気が父に分かった時も、父の認識はまだ軽いというものでした。
父は認知症を毛嫌いしていたので、母もなかなか言えなかったでしょう。
でも、その時は母物忘れが...と言ってきた時から10年近く経っていました。
父は、母が思っている以上に大変だと分かって、デイサービスに母を行かせるようになりました。
家では、両親の喧嘩が絶えなくなって、台所で火が出たり、母が包丁を持って父の側に立っていた事件も起こりました。
それでも父は母を連れて旅行に行ったりしていました。
ゆっくりした時を過ごしていくべきなのに、父にとっては旅行が唯一の楽しみで、母を連れて行くのが良かったのです。
父も母の病気をどこかで受け入れられなかったのではないかなと思います。
母を連れて行くと居なくなったり、他の人の下着をきちゃったりというトラブルが多発する様になり、父は民生委員の方にグループホームを勧められて、母を入居させました。
母を入居させて3ヶ月位して父は旅立ちました。
父の他界した後も旅行をいくつもキャンセルしました。
父の死を母はどこかで分かっていたのではないかなぁと思うのですが、母から父の事を聞かれる事はありませんでした。
入居して直ぐに字が書けなくなってしまいました。
母の手帳や住所録には書かれている人と自分がどういう関係にあるのかが、親族に至るまで一人一人に書いてありました。
入居に至るまでの間、母は忘却との闘いの日々だったのでしょう。
私は、母の物忘れの電話以来心配でした。
母を引き取りたいとも思いましたが、父がいるのでできませんでした。
認知症ってなりたくない病気ですが、なっても早く気が付き、周りも病気について理解して対応していく事で進行は遅くできるので、私ももう少し勉強しなくてはと思っています。
母が私にやらせたかったピアノ、義母が絶対にやめるなと言っていたピアノ、私は続けますよ!
音楽療法士の方が施設にいらっしゃるというので、先日、見学に行ってきました。
認知症などの色々な病気を抱えていらっしゃる方々が入居されているグループホームなので、元気な高齢者ではないのです。
母もここに12年近く過ごしていました。
まずは、口の運動をしました。
アイウエオという母音を1つずつ発声します。
口の中が潤ったら歌い始めます。
皆さんが知っている曲をゆっくりとしたテンポで、しかもキーを4、5度下げて歌います。
男性も女性も歌えそうなテンポとキーで、歌詞カードを見ながら歌うのです。
私はこのテンポとキーの低さにビックリしました。
何曲か歌ってから、療法士の方が演奏をしてくださいました。
初めはクラリネットでシャンソンを、次はオートハープという楽器で伴奏をつけてみんなで歌いました。
戦前の歌謡曲の引き出しを一杯お持ちで、李香蘭の歌もバッチリ歌ってしまいました。
すごいなぁと思いました。
私も少し手伝う約束なので、鍵盤ハーモニカで合奏してきました。
楽しかったです。
そして音楽は脳に中の色々な場所に記憶されるので、認知症になっても忘れないそうです。
音楽は現実を忘れさせてくれたり、改善してくれたりするそうで、皆さまのお役に立ちたいなぁと思っています。