私は色々なセミナーに参加しています。
それぞれのセミナーの内容に関わる私の準備や気が付いたことなどを書いています。
今日は、“譜読み”のセミナーに行ってきました。
譜読みの現状から始まり、少しずつ譜読みの歴史などを経て譜読みについて考えていこうというセミナーで、今日は譜読みの現状についての話でした。
私の生徒さんに全盲の方がいます。
シニア世代の方もいます。
全盲の方は、ちょっとした音楽理論は説明しますが、それ以外は耳で聴いて覚えてそれを反復して帰ってもらいます。
旋律にもよりますが、余り複雑でないものは一度に4小節は覚えてしまいます。
全盲の方の耳からの吸収力は、凄く高いです。
生徒さんには、私の手も触ってもらいます。
ドレミの位置は黒鍵で覚えていて、手を広げた時この辺だろうと分かっていても黒鍵を探して確認しようとするので、曲の思わぬ所で遅れてしまったりします。
全盲の方にとっての譜読みとは耳コピーをして手で触って確認して弾く事になるのでしょうか。
私の教室では鍵盤ハーモニカも教えています。
大人の方が鍵盤ハーモニカを弾く時、子供でも弾けるサイズですから、1オクターブはとても楽です。
むしろ、15、14といった指変えというか指くぐりが狭くて弾きにくそうです。
私は、ポジションを移動して指番号を明確にして弾いてもらっています。
鍵盤を見て弾くより、指で鍵盤の位置まで把握して弾けるようになってきました。
大人の生徒さんですから頭の中にドレミファ...の仕組みが入っているから指番号だけでサクサク弾けるのかなぁと思ったりします。
五線があって、音部記号があって...という仕組みの上に譜読みが成り立っている様に見えますが、これを知らなくても、耳コピーや指を動かすルールを理解すれば、ピアノは弾けてしまいます。
もともと音を記譜する為に、いわゆる楽譜の書き方が生まれたわけですから、弾く事と譜読みができる事とは同時に出来ない事だってあるわけです。
平素は、楽譜を見て弾きますが、聴音の時間に先生が弾いた旋律を聞いて書く作業は、譜読みの逆をやっているなと思いました。
音楽を演奏する次元をどこに持っているかで、譜読みの仕方も変わるような気がしました。
Puig=Roget
27/4/'16
昨日、第2回弾き合いセミナーに行ってきました。
場所はカワイ表参道。
ピアノはシゲルカワイです。
今回は、ピュイグ・ロジェピアノ教本1とベレンスの連弾がテーマでした。
ロジェ先生の存在は、フランス語の番組でのインタヴューで知りました。
かなり前です。
ロジェ先生の曲をコーラスで歌った、アカペラで歌ったり、先生方が弾いてくださり、教本の曲を堪能しました。
教会旋法の曲や、あまり耳にしない古い旋律だったり、でも”とにかく美しい!音楽”でした。
フランスやスペインの古い音楽、教会の音楽に親しんでいないとこの教本の曲にはちょっと親しみにくいかなと思いました。
以前もそう思ったのですが、今回も思いました。
この曲集は、練習曲の一環で書かれているもので、指使いなどはわざわざ練習用に組み立てられています。
ですから、易しいようで結構弾きごたえがあります。
でも、曲の音の響きが非常に綺麗で、弾いて曲が見えてくるとはまってしまいそうです。。
譜面から見た感じと聞いた感じが、全く違います。
ここまで、違う曲集もないのではないでしょうか。
私は、ロジェ先生の曲から、南仏のイメージが広がります。
* * *
以下のCDはロジェ先生が演奏なさったものです。
私はCDを持っているので、お聞きになりたければ連絡してください。
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Hellerはどんな作曲家?
24/3/'16
22日火曜日、渋谷のタカギクラヴィア松濤サロンで弾き合いセミナー第1回がありました。
渋谷のハチ公前で待ち合わせて、他の先生方と一緒に行きました。
ホールのピアノは、シュタインウェイで非常に弾きやすかったです。
第1回は、ヘラーの旋律的練習曲op45とベレンスの連弾曲の弾き合いです。
弾き合いの目的は、比べっこではなくて、各々が担当した曲がどんな曲なのか、どういう所が難しく、どんな生徒に向くのかみたいな感想を言ってもらい、レッスンに役立てようというものです。
私は、ヘラーについて10分で話さなければならず、何を話すか予め計画しておきました。
ヘラーについては、おおかまですがここに話した内容をざっとまとめておきたいと思います。
Stephen Heller (1813~1888)
ヘラーは、1813年にペシュト(現在のブダペスト)に生まれた。
父は毛織り物商店の現金出納係をしていた。
音楽系の家系というわけではなかった。
幼小期
幼い頃、ギムナジウム(中等教育学校)に2年間だけ通い、そこで音楽と読書に目覚め、学校の神父にオルガンの手ほどきを受け、才能の片鱗を見せた。
指揮者、作曲家のブロイアーにピアノを、オリガン奏者、作曲家のチブルカに和声を学んだ。
9歳の時にブロイアーと2台ピアノ協奏曲を演奏したり、11歳の時にブロイアー指揮で,リースのピアノ協奏曲を演奏した。
また即興演奏もした。
彼の才能は高く評価され、父は彼にもっと高度な音楽教育を受けさせるべく、ウィーンに移る決心をした。
ウィーン
1824年~1825年頃、彼らはウィーンに到着し、まず、チェルニーに教えを請いた。
チェルニーの下で半年でベートーベンのソナタ2曲のみ教わった。
次にハルムに教えを請いた。
ハルムの下で2年間、テクニック上の訓練を受けた。
シューベルトの友達、ボクレットに半年間教わった。
ウィーンでは、ベートーヴェン、シューベルトに会ったりベートーヴェンの交響曲、モーツァルトの弦楽四重奏、イタリアのオペラ等度々聴く機会があった。
ヘラー自身も演奏会で弾く機会があった。
当時の演奏会では、即興演奏を披露したが、ヘラーの演奏は評判が良かった。
ヨーロッパツアー
父はヘラーが十分に成長したと考え、ヘラーをペストに呼び戻しヨーロッパツアーに乗り出した。
ハンガリーの町をめぐり、ポーランド、ドイツ中部、北部年に至るという2年半にも及ぶ旅行になった。
ヘラーはワルシャワでショパンと知り合った。
ワルシャワの演奏会では、自身の協奏曲、フンメル、モシュレスの協奏曲、得意の即興演奏をした。
彼は、ライプツィッヒで初めて諸作品を出版する機会をえた。
1830年、一行はアウスブルクに到着した。
父は、ここでヘラーを置いて帰国してしまった。
アウスブルク
ヘラーはこの街で8年間を過ごし、ピアノ教師としての職を得て、フッガー伯爵というパトロンを得た。
ただ、この伯爵はヘラーにモーツァルトやクレメンティのような曲を書くよう求め、ヘラーはこの事が悩みの種であった。
この街で、色々な音楽家と知り合い、作曲の助言を受ける事ができた。
幾つかの作品を出版していたヘラーは、シューマンの目にとまり、シューマンの雑誌"新音楽新報"に投稿する様になった。
1838年,パリのピアニスト兼作曲家カルクブレンナーがアウスブルクに訪れた折、ヘラーは彼と共演する機会を得た。
伯爵が没したこともあり、ヘラーは憧れの地パリを訪れる決心をした。
パリ
1838年10月, ヘラーはパリに着いた。
パリで、カルクブレンナーに弟子入りすることを考えたが、カルクブレンナーと気が合わずやめて、初めの2年間は主にドイツ人音楽家のサークルに出入りした。
ここで、ベルリオーズやハイネと知り合った。
ベルリオーズは、ヘラーを高く評価していた。
ヘラーは、創作活動を本格的に始めた。
パリでの最初の作品は、"24の練習曲"op16だった。
これは、中級者向けの練習曲だったが、全調を網羅し、豊かな歌唱的旋律と多様な性格の曲が含まれていて学習者や教師にとってまたとない教材として受け入れられた。
こうして、名声を次第に高めていった。
出版者からの依頼も次第に増えていった。
先のドイツ人サークルでフロベルビル(Prosper-Eugene Juet de Froberville) という青年に出会い、彼の仲介で彼の母の邸宅に招かれた。
そこで、ヘラーは古今のフランス文学に触れることができた。
フロベルビルのおかげで、ヘラーの作品の支持者は次第に増えていった。
さらに、ローランという支持者の協力を得た。
1845年,ヘラーはop45を出版した。
この時期、ヘラーは教育的作品以外に、"セレナード"といった抒情的で劇的な性格的作品を発表する様になった。
1850~1860年代
1850年代〜1860年代にかけてヘラーは音楽界に大きな潜在的影響力を持つようになった。
パリ音楽院をはじめとして、ベルリン、ライプツィッヒ、ウィーンの音楽教育機関ではヘラー作品を生徒に推奨するようになった。
ナポレオン三世統治下のパリでは、音楽院生はドイツ・オーストリアの『古典音楽』の演奏を推奨する保守的傾向を帯び始めていた。
その中でヘラー作品は、ドイツの伝統書法と同時代のピアニズムを調和させていたので、
「現代の古典」として歓迎された。
当時のパリ音楽院のマルモンテル、ル・クペの2人のピアノ科の教師はヘラー作品だけを演奏する夕べを催したりした。
また、ドイツでの音楽家達やベルリオーズなどとの交流を通して、シューマンの死を知り、クララ・シューマン、ヨアヒム、モシュレスなどと演奏するサークルに参加したりした。
この頃、作品は、内面的で洗練されていった。
1869年,ベルリオーズの死に続き1870年に普仏戦争が起きた。
ヘラーは、事態の悪化を見越して、スイスに逃れた。
ルツェルンで、パリのドイツ人芸術家サークルで一緒だった仲間と出会い、スイスの静かな時間は、ヘラーに沢山の作品を生ませ、実り多いものとなった。
パリに戻ったヘラーは、以前にも増して読書に耽り、創作活動も盛んになった。
シューマンの《幻想曲集 op12ー3<何処へ?>》を素材とした大規模な《 シューマンの主題による変奏曲op142》は、当時音楽院に在籍していたドビュッシーがマルモンテル教授の勧めで1878年の定期試験で演奏している。
しかも、この時、ヘラーは試験官として彼の演奏を聴いていたのだという。
1880年代に入ると目を患い、思うように創作活動ができなくなっていった。
1838年,ヘラーはパリで息を引き取った。
参考資料
上田泰史 PTNAピアノ辞典、PTNA読み物・連載 ショパン時代のピアノ教育
以上が、セミナーで話した内容です。
ヘラーには大きなオリジナルな曲が少なく、色々な有名な作曲家の作品のモチーフを活かした変奏曲などが多いので、時代の流れとともに消えていってしまった気がします。
でも練習曲1つでも残って、今も弾く人がいること自体すごいことではないでしょうか。
私は、ヘラーのop154 ショパン作品を演奏するための21の練習曲は、意外に役に立つと思います。
また、ヘラーの作品を色々聴いていて出会ったop82, op140シリーズの作品群はシューマンやショパンといったロマン派の香りがたっぷり漂う曲集です。
CDも出ているし、YouTube でも聴けるのでぜひ聴いてみてください。
17/3/'16
今日は船橋栄吉邸に行ってきました。
もうすぐ取り壊されてしまうのだとか…
船橋栄吉は歌手であり、作曲家でもありました。
牧場の朝という唱歌をご存じだと思いますが、この歌は彼が作曲しました。
実は、私の義父の父の妹が船橋家に嫁いだのです。
義父の兄弟と船橋家の子供達は従兄どうしということになります。
義父の父は、木下益次郎と言い、建築家でした。
横浜にも神戸にもまだ彼が建てた建物が残っています。
この船橋邸も、木下益次郎が設計し建てたものです。
船橋家の2人の娘さんは、ピアノが専門で、ベヒシュタインが2台とシュタインウェイが1台ついこの前まで家にあったのだそうです。
今日は、音楽家一家が過ごした、建て増しに建て増しされた迷路みたいな家を見てきました。
感想?
それは、私も捨てなくては!だけです。
物が多くなり捨てられなくなる前に捨てる!
これは迷惑をかけない唯一の方法です。
写真は今日のお土産です。
Hellerの楽譜とブルグミューラーの楽譜。
Beethovenの写真。
練習室がお弟子さんの為にあり、そこの棚には練習曲の楽譜が沢山残っていました。
(3)
17/3/'16
Je suis morte de fatigue !
疲れて死にそう!→ 超つかれた!
やっと年表と作品集の資料を作りました。
年表は、人と地名を区別していなかったりで、ちょっと説明が必要です。
政治的にも極めて変動の多かったし大きかった19世紀だなと改めて思います。
自然科学や医学、文学や美術の世界も19世紀の変化は目ざましいものがあります。
写真は拡大しながら見てください。
(2)
24/2/'16
作曲家ヘラーは1813年にハンガリーのペスト(病気の名前ではありません。ハンガリーの都市の名前です。ブタペストという首都の名前は、ブタとペストという2つの町が合わさってできました。)に生まれました。
ここから先はセミナーのレジュメで書く予定です。
1813年頃は一体どんな時代だったでしょうか。
19世紀初頭です。
ピアノだけ弾いているとこういう事に実に疎くなります。
2,3日前から皆様にわかるように当時の様子、特にパリの事を説明するにはどうしたらいいか、息子の世界史Bの教科書を読んでみたり、コンパクトな世界史資料集をめくってみたりして、結局フランス語のフランス史の薄いパンフにたどり着きました。
よくまとまってます。
1789年にフランス革命が起こりました。
それよりもっと前にイギリスでは産業革命が起こりました。
そのあと、アメリカ独立戦争が起こりました。
色々な事が起きて、市民は、少しづつではありますが、目覚めていきます。
啓蒙思想とか百科全書という言葉を聞いたことがあるかと思います。
それまでは、教会が絶対的な存在だったし、国王に逆らうことが想像できなかったのです。
フランス革命の後もフランスの社会はグルグル変わります。
王政復古、ナポレオンの存在…まだまだあります。
こうした状況に置かれていた人々の価値観、ものの見方、感じ方と音楽の嗜好とは深い関係があるのではないでしょうか。
(1)
22/2/'16
”21世紀へのチェルニー”というセミナーに参加していていろいろ気が付いたことを綴っています。
セミナーの内容というより横道に逸れたことが多いです。
11/11/'15
チェルニー24の練習曲
昨日は、チェルニー以外の練習曲を提示、皆で弾き合いをしました。
このセミナーは、毎回弾き合いをします。
これが、とても楽しいのです。
大学の授業みたいに、うるさい、こわい先生の前で弾くわけでなく、仲間でピアノの前に集まりワイワイやる。。。そういう雰囲気が魅力的なのでしょうか。
昨日は、色々な練習曲の発見、掘り出し物が沢山ありました。
こうした練習曲は、チェルニー以外にも言い練習曲があるのだという確信につながりました。
チェルニーは、パターンの繰り返し、左手が伴奏になっている曲が多い、など色々な曲を弾いていく上では足りないことがたくさんあります。
古典派の曲しか存在しないのならば、チェルニーで技術的な面はかなりカバーできます。
でも、ロマン派、近現代の曲はチェルニーの練習は、かなりかけ離れている時があります。
楽器自体もチェルニーの時代と今とでは、違います。
楽器の発達とともに、練習曲の発達も必要なのではありませんか。
ピアノの先生に限らず、教える立場の者はどうしても現実とズレを起こしてしまいます。
現実は、先生の事を踏まえて変わりませんから。
昨日のセミナーでは、旋律を歌えるようになりやすい曲で組まれているもの、先生と連弾をすることで、ピアノの響きの虜になれるようになっているもの等々がありました。
ベレンス 5つの音による初歩者のための連弾曲集
ヘラー 25の練習曲
ブルグミューラー 12の練習曲
このあたりの曲集に人気がありました。
次回は1月、楽しみにしています。
17/9/'15
17/9/'15
14/7/'15
チェルニー100番を(左の写真の87番)弾いていて、この曲は、プロテスタントの教会で使われている讃美歌30番ととても似てる気がしました。
左の写真は、チェルニー100番の82番,右の写真はベートーベンのソナタop49の冒頭。
チェルニー100番の82番です。
17/3/'15
今日チェルニーセミナーに行ってきました。
チェルニー100番です。
チェルニーは、皆がピアノに親しめるようにその当時流行っていた色々な曲をアレンジして
この100番なる曲集を作りました。
かなり楽しいし、19世紀の作曲家の曲を沢山知れば知るほど、この曲集の良さ、面白さがわかるのだなぁと思いました。
シューベルトも作品の中に見聞きした曲や、尊敬していたベートーベンの曲の作風や旋律をさり気に取り込んでいます。
それを仲間の集まりで弾き合い、聴き合ったわけです。
今の世でいうなら、パクリであり、著作権法違反と訴えられるかもしれません。
権利だ!と主張するのでなく、どこにどう使ったか、どう変化させたかをのんびりと聴けて楽しめた時代でもあったのかなと思いました。